声が聞こえる。

想田和弘監督の「精神」を観た。
想田さんは、小泉政権時に川崎の市議選に立候補した男性を撮って日本特有のドブ板選挙の裏側をえぐった「選挙」が、一昨年にベルリン映画祭に正式招待されたことで注目を集めた映画監督で、テロップやナレーション、BGM、そしてモザイクを一切使わないドキュメンタリの手法「観察映画」を標榜している。
「精神」は「選挙」に続く観察映画第二作で、岡山にある精神科の診療所に集う人々をひたすら「観察」する映画だ。

この映画の存在を知り、今の自分が観るべきものだと漠然と思った。前作「選挙」は観ていたし、観察映画という手法にも深く感銘を受けていたのだが、それを差し引いても観なければ、という意識が強く湧き上がった。
タイトルからして軽いテーマではないのは明々白々である。二時間以上も耐えることができるのだろうかと不安になりながらも映画館に足を運んだ。
渋谷の東口から宮益坂を登る。今年最初の夏日で、五分と歩かないうちに全身から汗が吹き出し、腕の皮膚が軽く日に焼け出したのがわかった。
月末までは毎日、その日の最後の上映の後に想田監督とのティーチインが開催されるという。是も非もなく19時からの最後の回のチケットを買う。
数時間待ち、上映時間になっても不安は拭い切れないままだった。


以下、内容をざっくりと紹介しながら感想を述べていく。
この映画の中心となる診療所の「こらーる岡山」は一般的な病院然としてはおらず、築四十年を数えようかという民家を利用していて、待合室の雑然とした畳の間で診療を待つ患者同士が談笑したり、布団を被って雑魚寝をしていたりと、独特で希有な空気感を醸し出している場である。
冒頭、こらーる岡山の山本医師の診察室に暗い顔で俯き気味の女性が入ってくる。女性は胸と肩で息をしながら、小声でぽつぽつと「私には何もない。大事な人が離れていってしまった」と語り出す。絶望を口にする女性の目には涙がにじむ。
僕はここで、ああ、やはり重い、最後まで観られないかも、と脂汗を握り込んだが、直後の山本医師の行動を観て不安は吹き飛んだ。
山本医師は机上に手を伸ばし、ティッシュ箱からティッシュを取り出した。それを涙をこぼす女性に差し出すのかと思いきや、なんと山本医師は自分の鼻をかんだのだ。
な、なんだこのじいさんは、と思いながら吹き出してしまった。
同時に、そこでこの映画を信頼することができた。この映画は、精神障害者を社会から切り取るのではなく、精神障害者を取り巻く環境に溢れる喜怒哀楽を描いているのだと確信した。

始まって十五分で、早々にこの映画の「クライマックス」の一つが訪れる。
ある女性患者が自分の歩んできた人生を振り返るシーン。軽々しく書いてしまえるような話ではないので詳細は省くが、その女性は至って冷静に、極めて論理的に自分の来し方を語っていた。
その姿は、僕が考えていた精神障害者のものとは掛け離れており、一般的な社会通念や常識をまきまえた上での自己の客観視ができていて驚いた。
そしてそれは理解できない内容ではなく、自分にも起こりうることだと想像できた。だからこそ、彼女が淡々とではあるが最後に吐露した、苦しい、という言葉に重みを感じざるを得なかった。

自分と同じだ、と強く思った。
自分が精神障害を持っているという意味ではない。大切なことは精神障害の有無ではない。誤解を怖れずに言うと、映画に出ている患者たちは自分と同じ人間なのだと思った。
中年の域に達し、親からの自立を考え炊事の努力を始めるひと。
自分の苦しみを冗談混じりに語りながら、写真と詩に思いを込めるひと。
黙して語らないひともいた。

出てくるのは患者だけではない。診療所の職員の姿も描かれるのだが、患者がカルテ運びや薬剤の袋詰めを手伝うこらーる岡山の日常をテロップなしで映すと、誰が患者で誰が職員かは一見してもわからない。
観る側が頭をフル回転させて推理し、想像力を働かせ続け、同化と異化を繰り返していくうちに、いつの間にか健常者と精神障害の境目がないことに気付く。



映画が終わり、ティーチインが始まった。
僕よりちょうど十歳上の監督のことを、相当クレバーで鋭い方なのだろうと勝手に想像していたのだが、実際は誠実な好青年といった印象を受けて驚いた。
折角だから何か尋ねようかと頭を巡らせたが緊張して手を挙げられなかった。
話をするなら外でだ、と思い、終了後すぐにロビーでこの映画に関連する書籍「精神病とモザイク」を買い、監督にサインをねだりながら上記の感想を短く伝えたところ、
「そうですね。患者さんたちは自己分析のプロフェッショナルですよ。みなさん僕らと何も変わらない普通のひとでした」
と朗らかに応じてくれた。
聞きたいことはたくさんあったが、ほかの観客さんが大勢待たれていたので手短にして、
「明日のラジオ聴きますね!」
と言って立ち去った。
今夜のタマフルで、宇多丸師匠と想田監督の収録対談が流れるので、興味のある方はぜひ(おそらく、来週前半にはポッドキャスト配信もされるかと)。


いやはや、すごい映画だった。
人のつながりの本質的な大切さを感じた。
作中で患者が「お前はここにいてはいけない」という声が聞こえると言っていたが、「精神」を観終えてからの僕の耳には、「ツナガリタイ、ツナガリタイ」という声が聞こえて止まない。